我が父の冥福を祈ります


すみません、今日の記事は非常に個人的でかつ、暗い話です。
此処に綴るのは私の私見、他人に見せる心算で書くのではない自分に言い聞かせるような心算のものですので、他人さまが拝見されてもなんら楽しくも面白くも無いものであることを此処にお詫び申し上げます。

また、友人の皆様にお願いがあります。
当方G3104は喪中となりますので、来年の年賀状はご辞退させていただきます。
かわりに「喪中挨拶」という形でなんらかのメールを送らせて頂きます。
なにとぞご理解お願い申し上げます。




 さる12月7日、12時16分、医師の診断により死亡確認となりました。
享年55歳(数え56歳)、死因は肝不全。但し原因は不詳。
数日前から意識混濁が起こり、何度か病院に見舞いに走った後でした。
前日の6日夕方に体調が悪化したと知らせを受け親族一同集まり、様子を見に来た時は苦しそうにパクパクと喘ぐように呼吸する姿が痛ましいものの、まだかすかに反応はありキョロキョロと辺りを見回せていたのですが、その後急激に心拍数低下、呼吸が停止したのはその次の朝のことでした。
原因不詳というのは肝臓に病気を抱えていたのですが原因となる疾患が原因不明なのです。
症状は肝炎なのですが既存の「A,B,C型」何れにも当てはまらない為これといった治療法が無いので病気は発覚してても本人が通院、入院を拒み続けてました。


 肝機能低下から食道静脈瘤が発生、破裂し倒れ、即入院となったのが'98年、実にもう8年前の話。
酷使し続けた肝臓は肝硬変となりそのまま悪化、肝臓ガンも見つかりました。
ガン自体は「アンギオ」という少し特殊な手術で病変部位を薬で結殺する事で処置は出来たのですが肝臓機能低下により腹水が溜まり、入院と自宅療養を繰り返しました。
2年後だったでしょうか、肝臓に小腸から栄養を送る門脈、ここにガンの転移がみつかったのは。
食事から得た栄養を肝臓に送るための血管という場所が場所な為に切除も出来ず、あとはもう苦しまず、如何に延命し続けられるかという道しかのこせませんでした。


 それでも何とか持ち続け、7年の間は痛みに苦しみながらも趣味に時間を割いたりして心に活力を養いながら懸命に生きて来られたのですが、とうとうこの夏、何度目かの食道静脈瘤再発で入院、腹に溜まり続ける腹水に体力を奪われこの3ヶ月ほどの間に見る見る手足が痩せ細り、もう限界だったのでしょう、一週間前ぐらいから肝機能低下によるアンモニアなどの体内毒素の濾過不能によって血中に増えた毒素が脳に回って起こる「肝性脳症」を発症し意識混濁。
肝機能を補助する成分を含んだアミノレバンというアミノ酸点滴で一時的に意識は取り戻して呼びかけに応えることは出来るものの、マトモな会話は余り出来ない状態でした。
でもその時はまだ持ち直しただけ望みは在ると、私自身呆れるくらい楽観したつもりで見ていました。回復してくれたらいうことないですから。
でも、もうこの時点である程度は、否、思えば最初に倒れたあの時からずっと潜在意識の何処かでは覚悟してたんだと思います。
そしてその後、状態を持ち直す事は無くそのまま意識喪失、そして7日の明け方から一気に病状悪化し、主治医さんの懸命の一時間余りに渡る蘇生施術も甲斐なく、苦しみにもがき暴れる事も無くあの世に旅立ちました。


 最後の1時間前には兄弟一同間に合ったものの、実際はもう朝方心臓が止まりそうになった時点で逝ってしまってたのだと思います。
ずっと痛みに苦しみ続けてきたので、最後は意識も無く痛みに苦しまなかったのは救いかもしれません。
あの蘇生処置中に母や妹達が耐え切れず泣く姿に少し羨ましい気持ちになったのを覚えています。
自分は泣けなかったから。僅かに目頭に涙が溜まる瞬間はあるものの、妹達のようには泣けなかった。
そんな自分の身勝手さと冷淡さ。それが少し悔やまれる。
父は生前に私のことを「アレは気がつけん、いつでも自分の世界や。結局最後まで直せんかった。」と妹に語ったそうです。
非常に恥ずかしく思う。確かにそれはその通りで、紛れも無い事実だったから。
自分自身それを判っていながら、如何すれば直せるのかすら想像も出来ない。
最後まで親の言うことをまともに聞けず、ボンクラ息子のままだったことを申し訳なく思う。
結局最後の最後まで意地を張って、不出来なダメ息子だったことを謝ることすら出来なかった。
だからこんな形で、こんな場所にではあるけれど、この場を借りて今此処に謝ります。


ろくに忠告も聞かずだらしなくてごめんなさい、父さん。
今日から今より少しでも真面目になるよ。何にでも気を配り、気をつけてしっかり出来るように頑張ります。


 今日の通夜で、父の会社から大勢の参拝者が来られた。その数60余名。
なんでも「三機(父の勤め先)の○○」と聞けば結構その業界では知られているほどだったらしい。
過去に日銀の空調関係を一手に引き受け指揮していたほどの人だったのでその凄さはある程度は知っていたものの、今日改めてその大きさを思い知らされた。
それでも家では子煩悩で、常に自分たちのことをいやって程心配し続けてくれた父。
自分には過ぎた父親だ、こんな高いハードルをどうやって乗り越えればいいだろう(苦笑


 だが悔やんだ所で始まらない。別れの覚悟はとうに済ませていたから良い。
明日本葬の後に火葬される。それが終わるまで喪主の自分は気を抜いても居られないw
今まで助けてくれてありがとう親父、心配してくれてありがとう親父。
散々苦しんだんだから、今はもうゆっくりと好きな事をしながら休んでください父さん。


彼に穏やかな冥福と、輝かしい来世があることを祈ります。