私見「無の黒船」

かつて、キャプテンハーロック銀河鉄道999等の著作を持つ漫画家の松本零士先生が、
東大名誉教授の竹内均氏の監修で「無の黒船−CRISIS?−」という作品を世に出した事がある。

無の黒船。無、つまり0(ゼロ)。
この作品の中でこの0が指すのはエネルギーが0という状態。
現代(作品内設定では1999年)の日本からエネルギーが無くなる状態の時、日本に何が起こるのか?
それを先生は第二次世界大戦に続き、第三のクライシス(危機)が訪れるとして奇抜ながらも中々興味深いストーリーで描き、ささやかな問題提起としている。

この作品のタイトルである無の黒船とはつまり、
日本に訪れる「エネルギー資源がまったくのゼロ、無!」という状態そのものを指す。
つまり黒船とは外敵の戦艦ではなく、日本に訪れる「危機」をかつて幕末の日本を激動させた「黒船」に見立てた比喩表現だ。

私はこの表現は素直に上手い、と思った。
今でこそ、彼の描いたこの無の黒船のシナリオ自体は多少現実味を欠くなという点は判る。
だが、彼の伝えたかった内容はリアルさではない。問題はソコではない。
リアルさ、どれくらい現実性がありえるのか、それはこの作品の趣旨ではない。
とんでもない信じられないような事態が起こったとして、その時どう考えどう生きるべきか、そういった姿勢を伝えたかったのだと思う。

さて、作品の内容や感想とは関係のない話になるが、
最近私はこの「無の黒船」という言葉を、別の意味で使いたいと思うようになった。
それは今この現実の日本に起きつつある、否、もうとっくの昔から起きて進行している現象に対してである。

戦争関係の言葉に「冷戦」という単語がある。
これは一般的に知られた意味でいくと米ソの軍拡競争といった内容を指して使われる事が多い。
だが、本来「冷戦(Cold war)」という言葉は米ソによる東西冷戦が発生するまでは存在しなかった。
なぜならそれは「直接物理的、武力行使による交戦という従来の戦争形態に発展せぬまま緊張状態が続いた」という史上初の特異な現象だったからだ。
そのため、火器を使わない=熱くない=冷めてる、冷たい戦争という解釈によって生まれた新語だ。
「冷戦」という言葉の定義をその「武力を以っての直接交戦に発展させぬ、火を吹かない敵対状態を指す」という意味で考えるならば、日本は未だ一方的な被冷戦構造にあると考えてよいのではないだろうか。
東西冷戦の最中、日本はもう一つの冷戦を特アから仕掛けられていたと。
それは東西冷戦が終わった今も尚続いている。
情報戦争、経済戦争の形を借りて、日本を内部から侵食し崩してしまおうとする。
かつて終戦で日本はGHQにより徹底的に価値観を変えられた。
その際に、米国は日本に二度と戦争を起こさせぬよう、その国民性そのものから牙を抜こうと目論んだ。
日本という国そのものを虚勢しようと企んだ訳である。
それがさらに戦後の高度成長とともに醸成され、ソコに高度成長を遂げた日本の富に目をつけた特定アジアの数国が、その豊かな資産を狙い、奪い取ろうと動き出した。
それが30年ほど前から急激に態度を険悪に翻した彼等の反日政策である。
、既に国際法上無効となっている謝罪と賠償の無制限請求、過去を何度でも掘り返しては歴史捏造を行い印象悪化工作の数々。
問題なのはそれらの工作によって作り出した負のイメージを日本の国内に浸透させようと仕掛けてくる事。
メディアで、学校教育で、ありとあらゆる手段で戦争を知らぬ新たな世代に『嘘』を“事実"として伝播させる。
コレが現実に私の生まれ住む日本で行われている。

日本人の心から、日本という自分の母国への敬愛や親愛の念を削ぎ落とし、嫌悪させる。
その結果起きることは何か?
それは日本人が日本国への帰属意識を失う、己の母国意識という物の欠如。
その結果日本という国はどうなる?
侵略者にとって、これほど都合の良い格好のカモネギは居ない。
カモがネギを背負い自分で出汁と鍋を用意し、自分から火に掛けて料理されるのを待っているような物といっても過言ではなくなる。
……これが日本が受けている『侵略戦争』の真実の姿だ。

目に見えぬ水面下の冷たい侵略戦争、それも冷戦の一つの形ではないだろうか。

私はコレを第二の黒船と。
日本人から自身の帰属する社会への共同体意識を無にしようと襲来する、姿無き黒船。
それを「無の黒船」と呼びたい。