無効論者も共産主義者も、同じに見える

どちらも、等しく現実を見ていない、現実ではなく、理想を見ている。
だからどちらの話も、現実性を欠いて聞こえのいい、耳障りだけはいいそれぞれが望む希望の利点だけを賛美しそれ以外の考えを拒む。

自分は別に無効論者でも、共産主義者でもない。
無効論者でなければ保守じゃないというのなら俺は当然保守じゃないのだろう。
元より保守だという自覚も認識もない。
だが共産主義者では決して無い。あんな妄想お花畑は真っ平ごめんである。

ただ現実を見て、今何が必要かを主眼に物事を考えているだけだ、一人の日本人として。
今日、一人の無効論者と議論となった。
不思議なのが、無効論者が否定的に批判してきたのが、日本の帰化政策に危険な外国人に国籍を誤って与えてしまわないよう設ける予防策の提案に対してだった。
結局彼の言い分を要約してしまえば、「正統憲法」を制定してしまえばそんな危惧は杞憂に終わるというような物だった。
単一民族による国家には「忠誠の誓い」のような疑似祭祀は必要ない、と。

だがそれは単一民族で出来ている国が、特に敵対意識を持つ国家からの人的流入の規模が小さい場合にのみ成り立つ。
まったく違う文化、思想を持つ異邦人が大規模に流入してくる時代に通じる話ではない。
問題点は文化や思想ではなく安全保障のほうだ。
残念な事だが、既に日本はその安全保障を軽く見ていられるほど安穏とはしていられない。
すぐ真横に侵略も辞さない軍事大国が常に軍備拡大を続けながら虎視眈々と領土略奪を狙っている第二種警戒態勢状態なのだ。
全ての帰化外国人が危険と言う意味で対策をしろといっているのではない。
一部に本当に危険な外敵が紛れ込む危険が現実にあるから、取れる予防対策はするべきだという話なのである。

私がその提案に一例として米国の「忠誠の誓い」を挙げただけなのだが、ソコに引っかかった。
曰く「忠誠をどうやって測るのか」「効果が説明できるのか」
そんな物、元より重要な問題ではない。概念的な問題ではないのだ。
問題なのは、たとえ形式的であれ、日本に対し危害を与える意思の有る外国人に不用意に国籍を与えてしまわないようにする予防線であり、一種の抑止力装置だ。
たとえばだ、反日活動家たちがよく行う国旗焼きや国を象徴する物品への破壊や汚辱行為。そうした国旗国歌、日本の象徴である天皇や皇室への敬意を誓わせる証書なりに署名でもさせて保管すればよい。
その後帰化した彼等の誰かが反日活動や反国家的犯罪、スパイや売国行為を行った場合、その証書が効果を発揮し、その問題人物の国籍資格を無効化する根拠に出来る。
そうした根拠作りの為に必要な条件措置だと説明しているのだ。
それが一度機能し実例が発生してしまえば、それ以降は確実に工作活動目的の帰化への抑止力となる。
そう、それは概念的なものを取り締まる事を目的としているのではなく、安全保障を強化する事を目的としているのである。
当然の話だが、完全な防止、抑止になる事はありえない。そんな物は絶対に有り得ない。
だが、それでも抑止や対処に効果があることだけは計算できる筈である。

だが、それには否定的意見しか言わず、ただ憲法無効論の論拠や理屈ばかりを訴えてくる。
そういうことは平和な時期に、好きなだけ議論してくれればいい。
だが今はそんな悠長な事で時間を浪費していて良い時か?
妙なすれ違い感ばかりが募る。
彼等の論拠は常に「現状の憲法は法的根拠から歪曲していて意味が無いのです」だ。
これでは話が噛み合うわけが無い。
彼等にとって何が重要なのか、日本人の安全や安心、利益なのか、憲法の正当性なのか。
どちらなのかがもはや判らない。

結局言い分を聞き続ければ、法的に間違っているとする根拠は「占領憲法」に帰結していた。
それでは何十年と延々繰り返しては実現に至らなかった古い無効論と何処が違うのか。
判らない。

別に私自身は旧帝国憲法を否定もしなければ、新しい憲法で再スタートすると言われても脊髄反射のように拒絶はしない。
将来的にそれが世論の市民権を得て、実現可能になる分には全然構わない。
いくらでもやってくれ!だ。
だが、今の今まで全てが失敗に終わっている無効論をこの不安定な今現在の解決案に持ってこられても説得力が無い。
現実性がない、実現可能性があまりに弱すぎる。
そういう根本的なことは決定までにとてつもない時間が掛かるのだ。
現に今の今までずっと66年間保留しっぱなしなのだから。

だったらもっと現実的に、迅速に対処できるような対案でも出してくれればいいのに。
だが無効論以外の対案はついに聞く事はできなかった。


なんなのだろうこの熱を殺がれる虚ろな虚無感は。
全てがどうでもよくなりそうにさえなる。

彼等は決して現実を見据えて考えている訳ではないようだ。
今とりあえず何とかすべき優先問題の為に取れる手段はなんでも考慮すべきではなかろうか。
どうにもそういった思考があまり見られない。
刹那的な延命策だとでも考えて軽視しているのだろうか。
どうにも無効論者達の姿勢は自分達以外の考え方は全て護憲だと捉え見下しているようにすら感じられる。
専門的な用語を多用し、知らない相手にどうにかして教えたい、伝えたいという意識は非常に低い。
そんな姿勢や態度では何も変えられる物など無いのに。
特に人の心ほど説得の難しい物は無いのに。
どんなに理屈が通っていようと、相手を敵にしてしまっては何の意味もない。
それは自分にも言える自戒すべき事ではあるが。

今はとにかくそんな悠長な論争で時間を浪費している余裕は無い筈だろう。
そのために今は利用できるなら憲法でも条例でも、なんでも利用すべきだと思うのだ。
それが現在を生きると言う事ではないだろうか。

だが、どうにも最初の意識の時点から彼等とは深刻なズレがあるように思えてならない。
何故なら私にとっては憲法が根拠なのではなく、根拠の明文化として憲法を持ってきたという意識でしかないからだ。
当然、人、風土、社会の護持が最優先。次に憲法が来る。私にとって憲法は至上命題ではない。
何故なら憲法の存在意義が国家である人、風土、社会の護持にあると考えているからだ。
そういう認識に有る以上、占領憲法だろうが帝国憲法だろうが、新生憲法だろうが何でも良いのである。
その憲法が、この日本に住む日本人である我々にとって役に立つ憲法であればそれでいいのだから。
憲法に不備があろうと、日本は日本人にとって何が最も最良かを根底に考え法を整備し行動していけばよいだけである。
その結果、憲法を刷新する必要があると結論が出れば変えればよい。
だがその論議にかまけて、目の前で燃えている問題への対処が遅れて国に被害が出ては元も子もない。
そうは考えられないだろうか。